負け犬の遠吠え ~さやかとの結婚生活~
しばらくして、彼こと健二はさやかと結婚することになった。
「この人と一緒に生きて行きたい。」
その気持ちが日々強くなり、決意した。借りたお金を返さなければならないという気持ちもあったが、それ以上に、わがままでだらし無い自分を受け入れてくれる彼女を好きになっていた。
結婚を決意してから、ゆうこから唐突に連絡があり、少し決意が揺らぎかけたが、最終的にさやかを選んだ。
許されぬ事かも知れないが、健二は本気で二人が好きであった。同じくらい好きであった。ただ、ゆうことの7年近くの交際の中では、彼はいつも少し背伸びしていた。そうしないと関係が壊れてしまうかも知れないと不安であった。さやかとの交際は、1年ほどだが、素の自分でいられた。とても居心地が良かった。それが理由かもしれない。
結婚に向けて、健二は障害者施設の契約社員を辞め、老人ホームの正社員になった。さやかも退職し、違う老人ホームの正社員になった。
さやかはデイサービスに配属されたので、日勤勤務だった。健二は特別養護老人ホームのオープニングスタッフをしばらくした後、デイサービスのオープニングを任され、そこで主任になった。
春に入社し、夏に籍を入れ二人で住み始め、冬に結婚式をあげた。結婚式の費用は、健二の父親が出してくれた。望んでいたわけではないが、なかなか豪華な式であった。新婚旅行にも行かせてもらった。
翌夏、男の子が産まれた。
家族が増え、健二にも責任感が出てきた。
そんな風に話を進めたかったのだが、健二はあまり変わらなかった。ただ、息子ができた事は本当に嬉しく、オムツ交換や保育園の行事を含め、育児は苦にならなかった。本当に可愛い息子だと思っていた。
ここでもパチンコはやめなかった。煙草も続けた。時々仕事も辞めたくなった。
前にも話したように、健二は、老人ホーム併設のデイサービスセンターの主任で、実質的に運営を任されていた。仕事内容に不満はなく、給料は安いがやりがいは確実に感じていた。ただ、職場の人間関係はかなりストレスだった。いつも彼に噛み付いてくる中年のベテランヘルパーと、上から目線で仕事を選ぶ看護師の事で悩んでいた。今考えるとつまらない事で悩んでいたなと笑えるが、当時はかなり苦しんでいた。
悩んだ結果、4年で退職した。ちょうど妻さやかの職場から誘われていた事もあったのだが、人間関係から逃げたかったのが本心だった。
退職するにあたって、妻や息子の事は殆ど考えなかった。健二の悪いところである。子どもが出来ても、自分が一番なのである。
さやかの職場では、前と同じ主任という立場であったが、部下も増え、仕事量も増えた。今度は夜勤もあったので、収入も増えた。
だが、半年程でメンタルをやられた。
また人間関係につまづいた。「あんたのメンタルでは厳しい」とさやかに言われていたのだが、兎に角現状から逃げ出したくて押し切った結果、半年で心が折れた。
転職初日、愕然とした。パソコンを使う仕事も沢山あるのに、自分のパソコンはおろか、自分の机もなかった。書類を保管する所もなく、付箋をはっていても翌日出勤してきたら移動されていた。更衣室の用意されたロッカーは埃がいっぱいだった。休みの日に頻繁に部下から電話がかかってきた。多い時は1日10回程だった。そのほとんどが、事後報告で充分な要件だった。加えて、苦手な部下が2人いた。ひと月程で耳鳴りが聞こえるようになった。
だがさやかと同じ職場なので、恥はかかせられないと思って我慢した。
心が折れた前の日、休日だったのだが、部下から電話があり、明日遅出に入って欲しいという事であった。本来は日勤で、朝に書類を作り、その後外出する仕事があり、現場には入れなかったのだが、健二はなぜか遅出を了承した。
翌日、早めに出勤し、先方に日程変更の電話をするが、なぜか何度かけても繋がらない。健二は焦ってバタバタしているが、周りは誰も助けてくれず、オムツ交換の時間になってしまった。
突然頭の中が真っ白になった。施設の廊下で立ち尽くしたまま動けなかった。勝手に涙が出てきた。
「もう無理やわ」
そう呟き、上司の所に行き、帰らせてもらった。仕事が出来る状態ではなかった。
自宅に帰るとさやかがいた。優しくは迎えてくれなかった。
『壁は避けて通る事ができる。しかし、ひとつ壁を避けても、必ずまた壁は立ちはだかる。二つ目の壁は、さっきより少し高くなり、乗り越える事が困難になる。乗り越えるまで壁はずっと続く。ただ、乗り越えられない壁は、神様は用意しない。』
この件を境に、結婚生活が崩れ始める。